狂乱の美学~ルチア、サロメ、ジゼル、Aesthetics of madness

『ルチア』セットプランより

男たちによってこれ以上生きられないほどに追い詰められ、衆目の面前でむき出しの錯乱状態に陥ったヒロインの姿が描かれるシーンが、かつて大流行した時代があった。1830年代のヨーロッパ、ベル・カント・オペラの時代である。それはいつしか「 狂乱の場」 (Mad Scene) と呼ばれるようになり、時代を超えた究極の表現様式として、愛されるようになっていく。その象徴とも言えるのが、オペラ『 ルチア』であり、バレエ 『ジゼル』である。

どちらのヒロインも、雷に打たれたように不幸のどん底に陥った状態において、恋人との幸福だった過去をすがりつくように回想する。その破滅の痛々しさが、両者の狂乱の場の共通傾向でもある。

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新国立劇場で『 ルチア』を新演出するジャン=ルイ・グリンダは、「サロメやルルなどに見られるような20世紀の多様な狂乱の場は、それぞれの時代の人々の思いを反映していますし、モンテヴェルディが作曲した『 オルフェオ』 にさえ狂乱の世界を見ることができます」としつつも、その原点としてオペラ 『ルチア』と、バレエ 『ジゼル』を並べてこう語る。「興味深いのは、 ルチアもジゼルも、狂乱しているときには、コミュニケーションが取れないということ。なぜ叫んでいるのか周囲の人々は理解できない。つまり狂乱とは、”意思疎通との断絶”なのです。

1830年代、狂乱は流行のテーマでした。当時は、ナポレオン戦争の傷跡によってヨーロッパ全域が苦しい状態にありましたから、人々は心に深く突き刺さる、今までにない新しいものを求めていました。この状況は、他の戦争の後にも起きた現象で、1920年代、30年代もまた狂乱の時代と言えるでしょう。凝り固まった考えの否定、心の思うままの自由な表現としてのロマンティシズムは本質的に”この時代”と限定することのできないものです」

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『ルチア』イメージ画:Jorge JARA

舞踊芸術監督の大原永子はこう語る。「ジゼルの狂乱の表現で大事なのは目です。視線が宙を見ていて……つまり何も見ていないこと。ところが、ふと母親にだけはパッと気が付く。そしてワッとお母さん!と抱きつく、その変化が重要なのです」

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バレエ『ジゼル』(2013年)

演劇で、ロマンティシズムの流れにある狂乱の場を探してみると、新国立劇場では『 サロメ』 (2012年、平野啓一郎訳、宮本亜門演出) が思い出される。月が象徴する狂気、猟奇的な背徳性のみならず、少女サロメの「 愛の神秘は死の神秘よりも大きいの」という最後のセリフに象徴されるような、” 精神的な純粋さ”や”赤裸々”もまた、狂乱の欠かせない要素である。

ジャンルも時代も越えたさまざまな狂乱の美学のあり方を、皆さんも探してみてはいかがだろうか?

 

【コラム 1】

ルチア Lucia di Lammermoor

ガエターノ・ドニゼッティ作曲、ウォルター・スコット原作、サルヴァトーレ・カンマラーノ台本、1835 年ナポリ初演。正式名称は『ランメルモールのルチア』。政略結婚によって恋人との仲を引き裂かれた17 世紀スコットランドの貴族の娘の悲劇を題材としたオペラ。「狂乱の場」は超絶技巧のソプラノの見せ場として知られていたが、血なまぐさい錯乱とあふれ出る真情の場面として解釈したマリア・カラス(1923-77)の歌唱以来、上演されるたびに新たな衝撃を人々に与え続けている。2017 年3 月の新国立劇場では、“ ベルカントの新女王” オルガ・ペレチャッコの初登場に期待が高まっている。

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ルチア役のオルガ・ペレチャッコ

 

【コラム 2】

Key person1 ウォルター・スコット Sir Walt er Scott,

『ルチア』の原作小説「ランマームーアの花嫁」の著者。この作品が当時流行した背景には、スコットランドの異国情緒豊かな城や荒野や海や霧が、当時の感受性豊かなロマンティシズムと合致していたことが挙げられる。若者の心を描いていたことも大切で、すでにゲーテの「 若きウェルテルの悩み」が全ヨーロッパを席巻したことともつながっている。

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【コラム 3】

ジゼル Giselle

アドルフ・アダン作曲、テオフィル・ゴーティエ他台本、ジャン・コラリ、ジュール・ペロー原振付、1841 年パリ初演。マリウス・プティパ改訂振付。ロマンティック・バレエ(ロマン主義のバレエ)の名作であり、ダンサーがポワント(つま先立ち)で踊るようになった最初期の作品でもある。村娘ジゼルの悲劇と錯乱を描いた第1 幕、森の不吉な精霊ウィリの一人となりながら、裏切った恋人アルベルトを死してなおも守ろうとするジゼルの優しさが際立つ第2 幕と、完璧な構成。その本質は狂気と幻想の優雅な表現にあり、すべての舞台好きが一度は観るべき、まさに聖なるバレエである。

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バレエ『ジゼル』(2013年)

 

【コラム 4】

サロメ Salome

オスカー・ワイルド作。名女優サラ・ベルナールを念頭にフランス語で当初書かれた。ユダヤ王ヘロデの前で裸で踊る姫サロメが、褒美に預言者ヨカナーンの首を所望し、その生首にキスをするという猟奇的物語。聖書に登場する人物を題材にしたポルノグラフィーだったことが災いして上演禁止となるが、ワイルドが獄中にあった1896 年、パリ初演。ドイツでは作曲家リヒャルト・シュトラウスがオペラ化して1905 年初演。日本では1913 年に芸術座が松井須磨子主演で初演。ビアズリーが描いた英訳版の耽美的挿画は(ワイルド自身は好まなかったが)、広く人気を博した。

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オペラ『サロメ』(2016年)

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演劇『サロメ』公演チラシ(2012年)

 

【コラム 5】

Key person2 カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ Caspar David Friedrich

ロマンティシズムの象徴として重要なのが、ドイツの画家カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(1774-1840) である。代表作「雲海の上の旅人」に見られるように、雲、海、霧、岩山の神秘的イメージが多い。

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「雲海の上の旅人」の図版

 

【コラム 6】

Key person 3 ノヴァーリス Novalis

19 世紀ドイツの詩人ノヴァーリス(1772-1801)の言葉「ロマンティシズムのプロセスは、世界の理想化のプロセスだ」について、演出家グリンダはこう説明する。「これは、合理主義とは相反していることを意味しています。合理主義とは、そうあるべきものを表すのに対し、ロマンティシズムは人々に夢を与えるものだと言っているのですから、それはまさに世界の理想化ですよね」

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取材・文:林田直樹(はやしだ・なおき)

音楽ジャーナリスト・評論家。音楽之友社で楽譜・書籍・月刊誌「音楽の友」「レコード芸術」の編集を経て独立。オペラ、バレエから現代音楽やクロスオーバーまで、幅広い分野で取材・著述活動を行う。月刊誌「サライ」(小学館)に「今月の3 枚」を連載中。インターネットラジオカフェフィガロ」パーソナリティ、「OTTAVA」プレゼンター。

 

 

ロマンティシズムを知るためのおすすめ3本

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「狂乱の場」マリア・カラス(ソプラノ)

WPCS-12943ワーナーミュージック

伝説の歌姫が名プロデューサーのワルター・レッグと組んだ歴史的名盤。カラスは「ベル・カントの本当の意味を知っているのは、世界中で私とレッグの二人だけ」とまで述べている。ドニゼッティ『アンナ・ボレーナ』、ベッリーニ『海賊』他の狂乱の場を収録。

 

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「若きウェルテルの悩み」ゲーテ

岩波文庫・新潮文庫・イースト・プレス(まんがで読破)

初版は1774 年。親友のいいなずけロッテに対するウェルテルのひたむきな愛とその破局を描いた書簡体小説。ゲーテ25歳のときの作品だが、彼自身の若き日の情感や不安、絶望が吐露さている不朽の名作。片思い中の男子ならずとも女性もぜひ。

 

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「レ・ミゼラブル」ヴィクトル・ユゴー

角川文庫(上・下)・新潮文庫(1〜5)・岩波文庫(1〜4)・ちくま文庫(1〜5)

1862 年に執筆。ミュージカルや映画でおなじみだが、ジャン・ヴァルジャンの生涯だけではない、19 世紀前半の革命と政変で混乱するフランス社会と民衆を背景に真実の愛を描いたロマン主義フランスの大河小説。そのクライマックスは、まさに「ああ無情」。